三島由紀夫『憂楽帳』核問題について言い当てている!

「だれだって腕っ節が強くなれば試してみたい。生兵法は大怪我のもとというけれど、私もボクシングをやって1ヶ月もたったら、けんかをしてみたくて困った。日本は原爆被災国として、なおかつ腕っ節の全然強くない立場から、町内の暴れん坊たちの腕くらべに、ひたすら抗議を申し込んでいられるが、日本だって原水爆をどんどん生産していたら、実験停止なんかオクビにも出さぬだろう。

 一口にいって、ソ連のやり方は小ずるい。美辞麗句を用いて、だれがみても非のうちどころのない理想論をかかげながら、その理想論が実現困難なあいだ時をかせぎ、平気で実験をつづけることができる。小国の生命の安全などをへとも思っていないところは、大国の貫禄十分である。 アメリカも日本の学者が放射能雨の危険を警告していたあいだは一笑に付して、私も滞米中、アメリカ人が雨をこわがらないで平気でぬれて歩くのにおどろいたが、乳牛の被害から生活の一端がおびやかされてくると、安閑としていられなくなった。

 核実験停止問題については、私はかなり楽観的意見をもっている。数年前に比べて、東西両大国とも、科学者のデータから、危険そのものの認識をかなり深めているはずだからである。あとに残るのは見栄と面子の問題で、これは永遠の人間性にまつわる問題だから、人間同士がよく話し合えばいいのである。」

核実験停止問題について、楽観的というのは、どうかとも思うが、この作品のテーマが、憂楽帳だから、憂うべき問題を提示してから、結論は楽観的に考えるところに面白さがある。

集団美についての見解もまさに憂楽帳だ。

「17日の国民体育デーの呼物は、2万人余による体操祭であった。実際マス・ゲームというのは壮観であって、豪華大レビューのフィナーレといえども、これには到底敵すべくもない。

 一糸乱れぬ統制の下に、人間の集団が、秩序ある、しかもいきいきとした動きを展開することは、たしか圧倒的な美である。これは疑いようのない美で、これを美しいと思わないのは、おほどヘンクツな人間である。

 ところで、ファシズム政権や、共産政権は、必ずこういう体育上の集団美を大いに政治的に利用する。かつてのナチスの体操映画や、ソ連中共のこの種の映画は、実に美しい。それを美しいと思わないものはメクラであって、ファッショや共産主義といえばなんでもかでも醜く見えてしまう人は不幸である。

 人間の集団的秩序と活力にあふれた規律的な動きは美しい。軍隊のパレードも、観兵式も美しい。それは問題の余地がない。

 ――しかしである。 

 この種の美しさは、なにも軍隊や独裁政治や恐怖政治が一枚加わらなくたって立派に出せるので、この種の美が、彼らの専売物であるわけではないのである。全く非政治的な場所においても、スポーツは本来このような秩序と集団の美を示しうるのである。

 こんどの体操祭の最大の意義は、それをはっきりと(この政治的時代のただ中において)証明したことだと思われる。」

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