
まさかの“キャリアアップ”という名目で飛ばされた先が、社内にいる“お荷物社員”総動員の部署だった。そこにいるのは他店で戦力外と判断された面々ばかり。そのメンバーをまとめて利益を出せと言われても、正直、無理ゲー以外の何ものでもない。
日本は少子高齢化が進み、新卒の就職率は過去最高を更新。一方、40代の私たちは、若手を優先する会社の都合でどんどん追いやられている。いわば“調整弁”として、都合の悪いところに押し込められるのだ。
このままサラリーマンを続けていても、この理不尽からは逃れられないのか。起業でもしない限り、ずっと苦い思いを抱えたままなのか……そう思うと頭を抱えるしかない。
“老害管理職”が指摘するどうでもいい一言
職場には揚げ足取りを趣味にしている“管理職代行”がいる。定年後に戻ってきた元店長らしいが、彼の口癖はこうだ。
「君、ネームプレートもつけずに勝手に入るんじゃないよ。店の人に声をかけてから入らないとダメだよ」
いやいや、そこまで厳しく言うほどか? そんな小さなことで権威を保とうとする管理職ほど、現場のモチベーションを下げる存在はない。案の定、従業員たちからは冷めた目で見られ、どんよりした雰囲気に包まれている。
気づけばチーフとして3年。責任ばかりが増えていく毎日に、楽しさはすっかり消え失せた。やる気は削がれ、社内の空気に馴染むほど、自分がどんどん小さくなっていく気がする。
映画『名もなきもの』で見たディランの孤独
そんな気持ちを抱えたまま、仕事帰りに府中シネマへ。ボブ・ディランの半生を描いた『名もなきもの』を観た。ディランの名曲が次々に流れてくるこの作品は、ファンには堪らないが、日本での人気はイマイチだ。
なぜ日本では受け入れられない?
- 英語の歌詞の美しさが伝わりにくい
- キリスト教的価値観がピンとこない
かつてディランがゴスペルに傾倒した時期、日本ではほとんど売れなかった。英語圏が有利なのは、言語が世界共通語として使われているから。ノーベル賞の件も含め、英語の強みをひしひしと感じる。
“売れるために何を犠牲にする?”
映画の中でディランは成功のために恋人を犠牲にしていた。売れている女性ミュージシャンと関係を持ち、楽曲をやり取りする。その裏で恋人との関係は悪化するばかり。
彼女の胸の内にあったのは、
「なぜ、私にはそのような詩が書けないのか?」
という嫉妬と孤独。ディランもまた名声と引き換えに孤独を抱えており、その苦悩がスクリーンから痛いほど伝わる。
偉大なる先輩への憧れ
ウディ・ガスリーへのリスペクトを語るディランの姿に、純粋さや感謝の想いを感じた。言葉にメロディを乗せ、世界中を魅了する――そんな姿に憧れずにいられない。
世界は広いようで、実は狭い
佐野元春がディランの聖地でインタビューを受けていた映像を思い出した。もしかしたら、この映画を観ているかもしれない。自分の“知っている世界”は意外と小さく、つながるところでは狭いのだ。
俳優がディランを完全再現する姿は圧巻で、『ボヘミアン・ラプソディ』のラミ・マレックを連想する。やはり世界レベルのエンターテインメントは、どこか次元が違う。
仕事をしながら夢を追う難しさ
「いつかきっと」
そう思い続けてきたが、現実は甘くない。サラリーマンと夢追い人、両立するのは至難の業だ。すべてを失う覚悟で没頭している人には勝てる気がしない。
それでも、実利的な生き方に興味が持てないのはなぜだろう。気質なのか育ちなのか、理由はわからない。ただ、目の前の理不尽な現実と闘いながら生きていくしかない――今はそれだけが唯一の真実なのかもしれない。
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