劇団四季『ジーザスクライスト・スーパースター』(ジャポネクスバージョン)を観ての感想

劇団四季ジーザスクライスト・スーパースター(ジャポネクスバージョン)を浜松町の自由劇場に観に行く。開園1時間前に行くと、1柵2000円のパンフレットを求めて、長い列ができていた。良質なミュージカルやストレートプレイの芝居を、1日1日続けてきたことで築いた信頼の大きさを超満員の会場に感じる。

以前、浅利慶太追悼公演の時に、通常のエルサレムバージョンを観たが、今回はジャポネクスバージョンの違いに興味はあった。違いは、歌舞伎のように顔を白や赤で塗りたて、他の用具を、竹や大八車等、日本式にしているというもので、踊りや歌、ストーリーに変わりはなかった。しかし、観終わった後の印象は、全然違うものになる。変な言い方にはなるが、イエス・キリストが日本に近しいものに思えるのだ。しかし、私は前回のエルサレムバージョンの方が、実際のキリストに触れるような異国情緒があって楽しかった。キリスト教がどういう教義か詳しく理解していないし、信仰心が無いからそう考えるのかもしれない。

マグダラのマリアが1人で胸に手を当てて歌う『私はイエスがわからない』の優しい愛に満ちたメロディーと歌声は、前回は、前席の男性が、手を叩いてしまうほどであったが、今回は、顔が真っ白で、目に赤い線が入っていると、能のように不気味で、素直に感情移入できなかった。それは、楽しみにしていた『ヘロデ王の歌』でも同じことで、背の高い細身の全身入れ墨の男性が、両胸に薔薇の花をつけて、ブリーフ一丁で歌うものだから、訴えようとするところは同じでも、表現の仕方でこれほど、相手に伝わる印象が変わってしまうのかと驚嘆した。何を言うよりも、どう言うかが大切だ。

カーテンコールでキリストを初め、皆の指で巨大な輪をつくるところがあったのだが、ジャポニスクバージョンでは観られなかった。その代わりというのか、物語の最後に、満天の星をバックに磔刑に処せられたキリストが、舞台が暗くなっていくほど光を帯びていく終わり方は、キリストの魂が現代に生きていると説得されるほどインパクトがあった。

全体を通じて、思うところは、さすが劇団四季である。

ジーザス・クライスト役 神永東吾 イスカリオテのユダ役 佐久間仁 マグダラのマリア江畑晶慧と中心となる役のほとんどが韓国人で占められている。韓国は、国立の芸能大学があって、国が本来、河原者の芸能を後押ししている国でもあるのだ。役者達の魅力は、日本の土壌からは生まれないものかもしれない。↓

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