三島由紀夫の『天人五衰』の冒頭、主人公の透少年が働く信号通信社から眺められる景色の描写があります。その建物は移設されているものの、その跡地から眺める海の広がりは圧巻です。
以下は三島由紀夫の文章です。
「沖の霞が遠い船の姿を幽玄に見せる」
「5月の海のふくらみは、しかしたえずいらいら光の点描を移しており、繊細な突起に充たされている。」
「午後2時、日は薄い雲の繭に身を隠した。白く光る蚕のように。」
「海の色はやや険しい暗い緑になった。そのなかに、東から西へながながと伸びた白い筋がある。巨大な中啓のような形をしている。そこだけ平面が捩れているように見え、捩れていない要に近い部分は、中啓の黒骨の黒っぽさを以て、濃緑の平面に紛れ入っている。」
「日が再びあきらかになった。海は再び白光を滑らかに宿して、南西の風の命ずるままに、無数の海驢の背のような波影を、東北へ東北へと移している。尽きることのないその水の群れの大移動が、何ほども陸に溢れるわけではなく、氾濫は遠い月の力でしっかりと制御されている。」
三島由紀夫の描写は、正確かつ的確です。
三保の松原近くの駐車場に停めました。
「ゆるい石段を昇ってゆくと、空を縦横に稲妻形に切り裂いた不遜な松林の姿が現れ、死にかけた松も枝毎に掲げた緑の燭のような花々の向こうに、生彩のない海が伸び上がっていた。
『海が見えるわ』と慶子は歓声をあげた。」
短い言葉でこれだけうまく表現しています。階段を昇って降りていったところに羽衣の松がありますが、そこに至るまでの林立する松はどれも巨大で、歴史を感じます。倒れそうになっている松は、ドカンやハシゴで支えられています。
観光地で商売する上での灰を近くに捨てていたため、多くの松が枯死したらしい。そのため、多くの若い次世代の松を植えてあります。寄付金を募る看板も見かけました。
三島由紀夫が取材した「2代目羽衣の松」は黒松で、枯死しましたが、現在は2012年に「3代目羽衣の松」になっています。しかし、その描写は依然として近いところがあります。
「正に羽衣の松は、磯馴れ松がそうあるべき以上に海へ乗り出しすぎていて、あたかも打ち上げられた破船のように、海難の夥しい傷痕を身に宿していた。」
「『これが羽衣の松で、ここで羽衣を返してもらった天人が、天人の舞を舞ったところだそうだ。ほら、またそこで写真を撮ってる。ろくに見もしないで、写真を撮って、あたふた帰るのが当節だが、一体あの人たちは自分がある特別な場所に、シャッターを切る間だけいたということを、何かよほど重要なことだと思ってるんだろうか』
『別にむつかしく考えることはないわ』と慶子は石のベンチに掛けて、煙草をとり出した。『これはこれで結構だわ。私ちっとも絶望しないわ。いくら汚れていたって、いくら死にかけていたって、この松もこの場所も、幻影に捧げられていることはたしかなんですもの。却ってお謡いの文句みたいに、掃き清められて、夢のように大事にされていたら、嘘みたいじゃなくて?私、こういうところが、日本的で、さりげなくて、自然だと思うの。やっぱり来てよかったわ』と本多の先をくぐって慶子は言った。」
慶子はすべてを楽しんでいました。
三島由紀夫の作品は金閣寺、南禅寺、三保の松原、兼六園などの名勝地を舞台にしていますが、その切り口は独特です。三保の松原でも、砂浜と松林と富士山を描写することなく、俗人の視点を排除し、1ランク上の美しい世界を表現しています。
トーマスマンの『トニオクレーゲル』に影響を受けた三島由紀夫は、俗と反俗の二面性を持ちながら創作を続けた作家です。市民性を持ちつつも、創作においては孤独を持ち続けました。
トニオクレーゲルの手紙の末尾
「けれども、僕の最も深く、最もひそやかな愛は、金髪で青い目の人間たちに向けられているのです。明るく生き生きとした、幸せで、愛すべき、凡庸な人たちに。
リザヴェータさん、どうかこの愛を非難しないでください。これは善き愛、実り多き愛です。そこには憧憬があり、憂鬱な嫉妬と、少しばかりの軽蔑と、純真そのものの幸福があるのです」
三島由紀夫の文学と景色描写を楽しみながら、三保の松原を訪れることは特別な体験です。ぜひ、あなたもこの美しい場所を訪れて、三島由紀夫の視点を感じてみてください。
コメント